元子の決定
初めて息子が生まれたことをとても喜んだ粛宗は、昀をすぐに元子(ウォンジャ/王の後継者である世子〔セジャ〕になる第一候補のこと)にしようとした。
しかし、仁顕王后にはまだ子供を産む可能性が高かったこともあり、臣下たちから反対されてしまう。
それでも、粛宗は、強めの口調で今すぐにでも決めたいという気持ちを示した。
反対する者が完全にいなくなったわけではない。その結果、なかなか決まらないことに痺れを切らした粛宗は、「すでに余が決めたことである」と言って、昀を元子にしてしまった。
1689年2月1日、高官の宋時烈(ソン・シヨル)が、元子の決定が早すぎると主張した。
宋時烈は、16代王・仁祖(インジョ)の時代に重要な政策に関わったり、17代王・孝宗(ヒョジョン)に帝王学を教えたりした人物だ。
その彼の言葉に激怒した粛宗は、宋時烈を流罪に処してしまう。
粛宗はあまりに息子を溺愛しすぎていたために、周りの意見を聞き入れようとはしなかった。
文=康 大地(コウ ダイチ)