一番の衝撃
安東・金氏の一族が政治を牛耳ったことで、さまざまな弊害が生まれた。特に、収賄が横行して民衆の反感が強まり、各地で反乱が起きた。いずれも鎮圧されたが、農民の生活は苦しくなる一方だった。
これほど社会が不安定になって、ようやく純祖は勢道政治の弊害を自覚するようになっていった。
しかし、もはや安東・金氏の一族の政治力が強すぎて、純祖は王権を力強く発揮することができなかった。彼にとっては、純元王后を正室にしたのが不運としか言いようがなかった。
実家に最大の権力をもたらした純元王后だったが、彼女がなにごとも自由に操れるわけではなかった。
一番の衝撃は、息子の孝明世子がわずか21歳で1830年に亡くなってしまったことだ。このときばかりは純元王后も運命を呪った。
4年後の1834年には純祖が44歳で世を去り、孝明世子の息子が即位した。それが24代王の憲宗(ホンジョン)である。(ページ3に続く)
イ・ヨン(孝明世子〔ヒョミョンセジャ〕)はどんな人だったのか?
孝明世子(ヒョミョンセジャ/名はイ・ヨン)はどれほど優秀だったのか?
イ・ヨン(孝明世子〔ヒョミョンセジャ〕)の父の純祖(スンジョ)は誰?
孝明世子(ヒョミョンセジャ/名はイ・ヨン)に代表される「世子」とは何か?