大出世を果たす
低い官職でくすぶっていた韓明澮は、なんとか人脈を作って首陽大君(スヤンデグン)に会うことができた。
首陽大君はすぐに韓明澮の知略と政治感覚を知って彼を重用した。それから首陽大君側のすべての計略は韓明澮が立てるようになった。
1453年、首陽大君が王位を狙ってクーデターを起こしたとき、韓明澮はその参謀として活躍して功臣一等に任じられた。
首陽大君は1455年に6代王の端宗(タンジョン)を脅して退位させた。そして、自ら7代王の世祖(セジョ)として即位した。
すると、韓明澮は世祖の秘書官になった。
1456年、端宗の復位運動を阻止した功で、今度は王の秘書室長に昇進した。いわば世祖の第一の側近になったわけで、大変な出世だ。
しかし、彼の生涯はかならずしも順調ではなかった。1467年、李施愛(イ・シエ)の反乱が起こったとき、韓明澮は李施愛に密通したという疑いで投獄された。それは、政治人生最大の危機だった。
韓明澮は実際には関係がなかったが、辞表を出した。自分の潔白を立証するためでもあり、世祖の政治的な負担を減らす目的もあった。世祖は彼の願い通り、一度やめさせた後で、反乱が収まるとすぐ彼を復帰させた。(ページ3に続く)