悲劇の中で果敢に動いた
大義名分が乏しい者が権力を握ると、その劣等感を隠すために覇道に走りやすい。世祖も同じだった。
政権を握るために血を分けた兄弟を殺したが、その政権を守るためにさらに多くの血が流れた。しかし、そこまでして獲得した王位に世祖が座っていたのは14年に過ぎなかった。
その間、世祖は自分の後を継ぐ大事な長男の懿敬(ウィギョン)を19歳で失った。
すべてが自分がおかした罪からきた悲劇だと信じた世祖。晩年は苦しんだが、それは貞熹王后も同じだった。
しかし、貞熹王后の不幸はそれだけで終わらなかった。夫の世祖が1468年に息を引き取った後、王位を継いだ二男の睿宗(イェジョン)までもが在位1年2カ月で急に世を去ってしまった。
希代の野心家・世祖のそばでずっと彼の政治的な歩みを見守り、また一緒に生きてきた貞熹王后は、立て続けに息子を失ったが、悲しみの中でも素早く政治状況を分析した。王室の最年長者となった彼女には、世祖の遺志と王室の盛衰がかかっていた。多くの血を流してまで得た王権が消えるのを貞熹王后はただ見ているわけにはいかなかった。
彼女は若くして亡くなった長男・懿敬の幼い二男を国王に指名し、その後見人として垂簾聴政を行なって王朝を安定に導いた。
貞熹王后はまさに傑出した「女帝」であった。