絶世の美女と称された敬恵(キョンヘ)王女は、5代王・文宗(ムンジョン)の娘で、弟が6代王・端宗(タンジョン)です。その弟は叔父の世祖(セジョ)によって王位を奪われてしまいます。そんな悲劇的な時代を敬恵王女はどのように生きたのでしょうか。
敬恵王女の息子
王女は王宮の中で生まれたとしても、10代のうちに結婚して王宮を出なければなりませんでした。こういうとき、夫は名門出身であまり力がない人……俗に「貧乏貴族」が選ばれました。なぜかというと、なまじ力がある人を選ぶと王座を狙われるおそれがあるからです。
敬恵王女の夫も慣習どおり、名家出身だが財力がない鄭悰(チョンジョン)が選ばれました。鄭悰は、7代王・世祖(セジョ)が甥の端宗から王位を奪ったことに憤慨し、抵抗運動をしますが、発覚して地方に流罪となります。
その頃、敬恵王女は鄭悰の子供を身ごもっていました。世祖は警戒して、「男であればすぐに殺せ」と命令を出します。
一方、世祖の妻である貞熹(チョンヒ)王后は裏で手を回し、「殺すのはあまりにも忍びがたい。男だったら私のところにこっそり連れてきてほしい。私が育てるから」と内官に伝えます。
生まれたのは男の子でした。
世祖からは「殺せ」といわれ、その妻からは「殺さないで連れてきてほしい」と言われた内官。敬恵王女に率直に話をすると、彼女は困惑しました。
本当は自分の手で育てたい……が、世祖に知られれば殺される宿命です。葛藤した末に、「王妃を信じてみよう」とつらい決断をして息子を差し出しました。こうして、貞熹王后の保護の下、敬恵王女の息子は王宮で育ちます。
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