何度も危機を乗り越えて
世祖は敬恵王女の願いを聞き入れてから1468年に亡くなりました。ただし、すかさず高官たちから「逆賊だった鄭悰の息子が依然生きているのは示しがつかない。処刑すべきだ」という上訴が起きました。しかし世祖の後を継いだ8代王・睿宗(イェジョン)はこれを許しません。
なぜなら、世祖から助けるように言われていたからです。
在位1年で急死した睿宗の後継王は成宗(ソンジョン)で、わずか12歳でした。未成年だったので、王族の最長老であった貞熹王后が代理で政治を仕切りました。
すると、「大逆罪に問われた者の息子は15歳のときに死罪に処す」という当時の法律にのっとり、ちょうど15歳になろうとする眉寿に対し、再び「処刑すべし」との上訴がなされます。
成宗は首を縦に振りませんでした。
世祖の意思を明らかにして、これを却下します。貞熹王后も「まかりならぬ。今後この件で上訴する者は厳罰に処する」と断言。貞熹王后はそれだけでなく、眉寿に高い役職を与えて何かと面倒を見ました。
安心した敬恵王女は、1473年に安らかに亡くなります。享年38歳でした。
その後、敬恵王女の息子の眉寿は官僚とし出世し、家門を高めました。敬恵王女の容姿を受け継いだ妹も良家に嫁に行き、幸せに暮らしました。
文=康 熙奉(カン ヒボン)