首陽大君と金宗瑞
1452年に王位にあがった端宗(タンジョン)は、11歳という年少だったこともあり、高官たちに政治を委ねるしかなかった。
つまり、政権の比重が完全に高官側に移ってしまったのだ。王族としてのプライドが人一倍強かった首陽大君にとって、これは我慢ならないことだった。
彼には、王を中心とした強力な王道政治を実現したいという野望があった。そのためには手段を選ばないというのが首陽大君の手法だった。
これは、高官側にとっては一番危険な王族に映る。本来、高官側は「王族の中の1人が王になれば、それ以外の王族(たとえば王の兄弟や親戚)を重要な役職に就かせたくない」という意図を持っていた。
なぜなら、力を持った王族が多いと、必然的に王位継承争いが激しくなって政治が混乱するからだ。
もともと、朝鮮王朝は初代・太祖(テジョ)の後継者をめぐって、息子たちが最初から骨肉の争いをしている。
このようなことは二度とあってはいけないという戒めを込めて、高官たちは王族に対してかなりの警戒心を抱いていた。
そういう意味でも、首陽大君と金宗瑞は、宿敵にならざるをえなかった。両者は利害が対立していたのだから……。
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首陽大君(スヤンデグン)が起こした癸酉靖難(ケユジョンナン)とは何か