- 2019-4-8
- 韓国時代劇の登場人物
- 仁宗, 文定王后, 朝鮮王朝, 歴史
暗黒の20年
6月29日、仁宗の病床の周囲が緊迫しているとき、文定王后がまたもや外出を言いだした。これは、さらに高官たちを揺さぶろうとする意図なのか。宮中は混乱するばかりだった。
7月1日の早朝、ついに仁宗は息を引き取った。その日、人々は路上に跪いて慟哭し、まるで自分の父母を失ったかのように悲しんだ。
これほど民から慕われていた王なのに、文定王后は仁宗の葬儀を冷遇した。
「王位に1年も就いていなかったので、慣例を踏襲しなくてもいい」
葬儀は簡略化され、服喪期間は短くなり、陵墓も格下げとなった。文定王后は仁宗の名誉を著しく傷つけたのだ。
結局、仁宗の次に慶源大君が即位して13代王・明宗(ミョンジョン)になった。
野史(民間に伝承される歴史書)には、文定王后の悪行を記したものもある。
それによると、仁宗の死因は毒殺で、文定王后が渡した餅に毒が盛ってあったという。それだけではない。仁宗は下痢の症状がひどかったのに、文定王后のさしがねで、仁宗の食卓には連日のように鶏の粥が出されたという。
ひどい下痢に鶏の粥はふさわしくないのに、文定王后はあえてそれを仁宗に食べさせて、さらに症状を悪化させたのである。
即位した明宗はまだ11歳と幼かったので、政治の実権はすべて文定王后が握った。彼女は政権の要職を身内で固めて、王朝そのものを強欲に牛耳った。
16世紀なかばの朝鮮半島は、凶作が多くて人々の生活は困窮した。それにもかかわらず、文定王后は有効な対策を立てず、民を見捨てた。そういう意味でも、文定王后が世を去る1565年までの20年間は、朝鮮王朝が暗黒の時代だったといえる。それもすべて、仁宗を毒殺したことが端緒になったのだ。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
康 熙奉(カン ヒボン)
1954年東京生まれ。在日韓国人二世。韓国の歴史・文化と、韓流および日韓関係を描いた著作が多い。特に、朝鮮王朝の読み物シリーズはベストセラーとなった。主な著書は、『知れば知るほど面白い朝鮮王朝の歴史と人物』『朝鮮王朝の歴史はなぜこんなに面白いのか』『日本のコリアをゆく』『徳川幕府はなぜ朝鮮王朝と蜜月を築けたのか』『悪女たちの朝鮮王朝』『宿命の日韓二千年史』『韓流スターと兵役』など。最新刊は『いまの韓国時代劇を楽しむための朝鮮王朝の人物と歴史』。
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