仁祖はなぜ光海君の斬首を拒んだ?

 

1623年、15代王の光海君(クゥンヘグン)は、仁祖(インジョ)が起こしたクーデターによって王宮を追放された。このとき、光海君は斬首にされても仕方がなかった。しかし、仁祖は絶対にそうしなかった。それはなぜなのか。

現在の徳寿宮はかつて慶運宮と呼ばれ、仁穆王后が幽閉されていた。写真は徳寿宮の正殿の中和殿

現在の徳寿宮はかつて慶運宮と呼ばれ、仁穆王后が幽閉されていた。写真は徳寿宮の正殿の中和殿

クーデターが成功

1623年3月13日の明け方、仁祖に統率された兵士たちは王宮に入り込み、重要な拠点を占拠した。
虚をつかれた光海君は、抵抗もできず、王宮から逃げるしかなかった。仁祖への内通者がたくさんいたことが光海君にとっては痛手だった。
新しく王宮の主になった仁祖は、クーデターの正統性を明確に示す必要があった。彼は、光海君によって慶運宮(キョンウングン/現在の徳寿宮〔トクスグン〕)に幽閉されていた仁穆(インモク)王后を訪ねた。彼女から強力なお墨付きをもらうためである。




仁穆王后はわが子を殺した光海君に強い怨みを持っていた。
それゆえ、すぐに仁穆王后が、クーデターへの大義名分を与えてくれるものと仁祖は楽観していた。
しかし、仁穆王后は1つの条件を出した。
それは仁祖にとって難題だった。
(ページ2に続く)

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