悲惨な処遇
端宗は寧越に送られたが、ここはかつて王だった人が住むにはあまりに悲しいほどの僻地だった。
しかも、ここでの端宗の処遇は悲惨なものであった。身の自由を拘束されたばかりか、食事もあまりに粗末だった。
端宗をそのように扱っていた世祖が、錦城大君の決起のあとに彼を生かしておくはずがない。それなのに「世祖実録」は自殺したと記録している。
もう一つの正史となる「承政院日記」には「10月24日、魯山君は賜死する」と明白に書かれている。
朝鮮王朝中期の学者が書いた「陰崖日記」には、「端宗が寧越で錦城大君のことを聞いて自殺したと言うが、これは当時、狐や鼠のごとき輩たちの邪悪で媚びた文だ。“実録”の編纂者というのは皆、世祖にこびへつらう輩ではないか」という文章がある。
野史によると、端宗の最後は堂々たるものだったという。
世祖の命令で毒薬を持ってきた高官の王邦衍(ワン・バンヨン)はそれを渡すことができず、端宗の前でずっと身を伏せていた。
それを見ていた端宗は自分で首に緒を結び、その先を窓の外に出して引っ張れと命じたという。
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