端宗(タンジョン)の哀しい最期!朝鮮王朝五大悲劇1

 

6代王の端宗(タンジョン)は1455年に叔父の世祖(セジョ)に王位を奪われてしまった。このとき、まだ14歳だった。彼の復位運動が活発になったが、「死六臣」事件が起きて、6人の有能な高官たちが命を奪われた。果たして、次に狙われたのは?





事実と違う記述

王位を奪われた端宗。彼の正妻だった宋(ソン)氏の父親を中心とした勢力が、端宗の復位を狙っているという告発が世祖のもとに寄せられた。
世祖はこれを待っていたかのように、ろくな調べもしないで端宗を魯山君(ノサングン)に降封(位階を下げること) して、遠い寧越(ヨンウォル)に追いやってしまった。
そして、端宗の生母の顕徳(ヒョンドク)王后から王妃の称号を奪い、その陵墓も平民の墓にしてしまった。
このようにして、端宗の王としての正統性を否定したのである。
世祖の弟ながら端宗と親しかったので流刑となった錦城大君は、ことがここまで至るともう時間がないと悟り、世祖への反乱を準備した。
しかし、急に進めた計画だったため、雑なところが多く、結局は失敗した。世祖は錦城大君と端宗の義父を殺した。




「世祖実録」の1457年10月21日の項には次のような記述がある。
「魯山君はこれ(錦城大君と義父の死)を聞いて、自ら首を絞めて卒する。礼をもって弔った」
このように、あまりに簡潔に書いているが、これが端宗の最期だった。
しかし、これは事実とは明らかに違う記述だ。
(ページ2に続く)

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